写真00
マンハッタン社の古式銃です。美術品として認められた物ですので正規に売買できるものです。
もちろん黒色、銃口開きです。
 
昔は何でもかんでも古い銃器が輸入販売されていましたが、1980年(昭和55年)に法律改正で慶応3年(1867年)以前に 製造された物、もしくは日本に伝来したもの、以外は販売禁止になりました。これにより古式銃市場は消えてしまいました。また、ピン打ち式の銃はOKですが、リムファイア式は年代をクリアしていても現在では所持出来ません。
詳しくは 警視庁の古式銃ページに解説があります。
 
古式銃は現在でもたまに見かけますが、価格は概ね100万から150万くらいのようです。

写真01
ここにオーナー様立ち会いのもとで貴重な品の写真を撮影させていただき、感謝感激です。
オーナー様に改めて御礼申し上げます。有難うございました。
 
マンハッタンの36口径ポケットは南北戦争直前に登場し、ちょうどS&W モデル2やコルト51ネービーなどと 同じ時代を過ごした物です。

外観チェック

写真02
MGCのモデルガン・51ネービーと並べています。どちらも36口径です。
まったく弾が発射できない、もろい材質のモデルガンが銃口閉鎖で黄色でないといけないのに、鉄製で弾が撃てる 能力のあるものが黒くて銃口開きなのも大変矛盾しているものです。
これは銃器として見ては、いけません。美術品なのです。
 
コルトの49ポケットは、31口径ですが、このマンハッタン社の物は36口径です。

写真04
シリンダーの彫刻は残念ながらほとんどすり減っていますが、フレームのブルーはオリジナル状態がすこし残っていますね。150年も前の品物ですので感激です。

写真05
右側のほうが綺麗に残っています。
トリガーストップピンがあります。

写真18
シリンダーには、このような模様が彫られていました。1843年のメキシコ海戦でしょうか?
この個体は、おそらく南北戦争前に製造されていますので南北戦争の絵ではないでしょう。

写真14
5連発です。当時のコルト49ポケットが31口径、5連発だったので、より大きな口径でアドバンテージを とったのでしょう。

写真15
重さはこんな感じです。

マンハッタン社について

写真10
マンハッタンアームズは、1856年に設立され1857年に回転式拳銃のコルト社特許が切れるのを待って 銃器製造販売へ乗り出します。いわゆるコピーメーカーです。
ノリッジ(コネチカット)で生産を始めましたが1859年ニューアーク(ニュージャージー)へ移転しました。 南北戦争のころS&W のモデル1のコピーやコルトのコピーを作っていました。 その後1868年にアメリカン・スタンダード・ツール社と名前を変えましたが 1873年の経済恐慌により破綻しました。 写真の書籍は、米国のアマゾンでふつうに購入できます。
 
写真20 コネチカットにあった頃はバレルの住所がニューヨーク刻印ですが、ニュージャージーに移転してからはニューアーク刻印になります。

しろ〜と鑑定団

写真03
シリアルナンバーの刻印は、すべて一致しています。
ネットで調べたら刻印は下記のようになっています。
この個体は、シリーズ2です。

36口径5連発

シリーズ 特徴 シリアル
シリーズ1 ニューヨークアドレス、パテント表示無し     1〜  4200
シリーズ2 ニューヨークアドレス、パテント表示あり 4200〜14500
シリーズ3 ニューアークアドレス 14500〜45200
シリーズ4 ニューアークアドレス2行刻印     45200〜69200

写真07
シリンダーには、ちゃんとパテント表示もあります。上記の分類表に合致しています。
 
このパテントとは、ボルトの喰い込むミゾを倍の数だけ掘って、安全ポジションにしたことだと思います。
当時は、暴発防止のためシリンダーを一つだけカラにしておき携行したようですので、このセフティポジションも 納得できます。おかげでフル装填しても安全に持ち歩けたことでしょう。
ちなみに坂本龍馬はS&W モデル2を持ち歩くときは、一番上はカラにしていたそうです。
写真08
ちゃんとニューヨーク刻印です。
ネットで取ってきたニューアーク刻印が下の写真です。
 
写真19
 
マンハッタンの36口径5連発シリーズは、1859年から製造が開始されていますので、この個体は1860年ころの生産でしょう。日本では井伊直弼が大老に就任し、安政の大獄を行った頃で将軍は14代・徳川家茂です。そんなころに製造された物を触れるなんて、まさに歴史そのものを握った気がします。

写真06
右側には壬申 三五番 熊本縣 と刻印があります。古式銃ではよく見るものです。
以下は、私の想像も入っています。 
明治4年(1871年)に成立した戸籍法により翌年の壬申の年1872年に日本初の戸籍調査が行われました。 その時についでに日本中に散らばる銃器の一斉調査が行われたのではないでしょうか?
幕末の騒乱から数年経っており、新政府にとって銃器がどこに何丁あるか正確に把握したかったのでしょう。 このマンハッタンは、35番の刻印で熊本県にあったものだと思われます。35番というのが日本全国の 連番なのか熊本県の連番なのかよく判りませんが、全国では相当な数が出回っていたと思いますので 熊本県だけの番号ではないでしょうか?

写真09
バレルは、けっこう傷んでいます。半分より銃口先端に向けて錆びていますので、使わなくなってから 保存状態が悪くて錆びたのでしょうか。
 
傷が全周に同じように存在するので、ひょっとすると、かつてバレルは先端部分が金属で閉鎖されていたのかもしれません。それを撤去するときにできた傷なのかもしれません。

検証

写真11
本やネットからの知識しか持ちあわせていないのですが、この個体のローディングロッドは、 シリーズ4の形状のものが取り付けられています。
書籍写真上のようにシリーズ1、2はコルト51ネービーと同じ形状です。

写真12
バラして解ったのですが、ウェッジキー、センターシャフト、トリガーバネは、あきらかにオリジナルではありません。 かなりの腕の人によってレストアされています。
 
古式銃のオープンフレームの銃はセンターシャフトが曲がっていてシリンダーとバレルに隙間があるものを良く見かけますが、この銃はシャフトが入れ替えられていましたので隙間はありません。古い銃を見るとオープンフレームの 弱いところがよく解ります。おそらく技術者でもあったサミュエル・コルトも十分に解っていたと思います。 ですから晩年は、一体フレームのレミントンや薬莢式のS&Wの足音に怯えていたのではないかと私は思っています。

プチ・レストア

写真13
オーナーからシリンダーの回転が止まらないとの事で、調べてみました。ボルトがちゃんと上がっていなかったので すが、原因は板バネが長すぎてボルトへのテンションがちゃんと伝わっていませんでした。 これは、すこし曲げるといいのでは・・・と、思ってペンチでぐいっと、してみたら
「パキン」と言って折れちゃいました。オーマイゴッドっ!
顔面蒼白・・・150年前の美術品を壊してしまった!っと一瞬以上あわてましたが、よく考えたら
このバネは合致していないものでしたのでレストアで使われた、間に合わせパーツなんだと思いなおし、 深呼吸2回ののちにオーナーへ冷静に説明する私でした。汗は噴き出ましたが・・・。
 
しかたがないのでWAのピアノ線バネを曲げてセットしてみたところボルトは快調に動くようになったのですが、 トリガーのテンションが緩くてフルコックと同時にハンマーが落ちてしまいます。
ふたたびその場の思いつきで、ピアノ線バネの上から折れた板バネを重ねて絞めつけて、なんとか凌ぎきれました。 場当たり上手でした。

写真16
他には、黄色矢印のバレル側の凹のガタが激しいため、バレルがぐらついていましたが、バレル側に金属パテを充填することでグラつきをかなり減らせました。
 
緑矢印のセンターピンの取り付けネジもゆるゆるでしたので、パテで修正しました。
全体にグラつきは解消されましたが、ウェッジキーがズバリの接触ではないので、キーの押し込み具合で シリンダー回転が重くなったり、軽くなったりします。これを解消するには、センターピンを作り直して キー溝とキーを正確に作らなくてはならないと思いますので、困難だということで、そこはあきらめていただきました。

写真17
実際に150年前のものを触らせていただき、感激でした。また、オープンフレームの脆さもよく理解できました。 オーナー様、有難うございました。

命のバトンリレー

写真21
この銃が製造された頃、日本では安政の大獄で吉田松陰が切腹させられました。一番弟子の久坂玄瑞は蛤御門の変で 命をなくし、実際に幕府軍を破ったのは高杉晋作でした。その高杉も倒幕の日は目にすることがありませんでした。 しかし、そのバトンはたくさんの若い命が、これでもかと散っていきながら、明治維新へとリレーされていきました。
 
そのころの日本に輸入されたこの拳銃は、 誰の手にあって誰に向けて火を吹いたのでしょうか。
 
150年前の日本がひっくり返る頃の生き証人です。まさに歴史が染みこんだ美術品です。
永く後世に伝わって欲しいと願っています。