年 表

自作年表ですが、言いたいことはすべて入れてみました。

民主党と共和党が代わる代わる政権を担うのは、保守的なアメリカと先進的なアメリカが、同時に存在する 不思議な国家をよく表しているのかもしれません。


AR-10 の開発

航空業界に身を置くジョージ・サリバンさんは、航空機材料による革新的銃器製造を夢見ていました。 フェアチャイルド社の資本でアーマライト社を作り、射撃場で偶然に出会った海兵隊出身のストーナーさんを技師に迎え 軍用銃器の試作に乗り出します。

1955年ころのことです。当時、M1 ガーランドの更新へ向けた新銃トライアルが行われており、アーマライト社も遅れて 参加しAR-10 を提出しました。口径は7.62mmでのちにNATO弾として世界で採用されたものです。 写真はトライアル当時の物と思われます。


アーマライトAR−10は、採用に至りませんでしたが、フェアチャイルド社は航空業界のつながりで オランダに製造所を見つけAR-10 ライフルを製造し、多数のセールスマンを雇って各国に売り込みました。 写真はオランダ製AR-10 後期型と思われます。

しかし、当時7.62mm弾の銃器ではFN 社のFALがデファクト・スタンダードで牙城は切り崩せませんでした。 AR-10 は、オランダでの約1万丁の生産に終わり歴史の表舞台から消えてゆきました。


AR-10 の小口径化

1957年、陸軍のColonel Henry Neilsen さんとWillard Wyman 将軍がアポなしでいきなりアーマライト社を訪れます。 AR−10の可能性に、ほれ込んだ二人は小口径・高速弾で試作してくれないか頼みます。

当時の情勢では、M1ガーランドに使われていた30−06弾は強力すぎて、もっと小口径の弾でも良いのではないかと 特にイギリスから提案されていました。アメリカ国内でも一部プロジェクトは、矢を放つフレシット弾や小口径高速弾の 研究をしていました。

ワイマン将軍の提案は、レミントン222弾を用いた小口径ライフルの提案でした。 写真は、初期の試作型でアーマライト社の技師、フリーモントさんとジェームス・サリバンさんの設計でAR-10 をスケールダウンしたAR-15 です。


AR-15 トライアル

当初222レミントン弾で開発の始まったAR-15 でしたが、やがて軍の要求を満たせないことが判明し、弾薬のケースを伸ばし 弾頭を重くした223レミントンが作られました。その過程にはAR-10 設計者のストーナーさんの意見も反映しているそうです。

1958年上半期にアバディーン性能試験場にて、小口径検討グループは上写真のウインチェスター224口径とAR-15 をテストします。ウインチェスターの方は、一見して分かるようにM-1 カービンを参考に定評あるメカと材料で組まれています。 また、木と鉄という今までの銃の概念を壊さないものでした。

参考ページ

https://www.americanrifleman.org/articles/2016/2/19/the-contender-winchester-s-224-light-rifle

1958年のトライアルでは、M-14 が次期ライフルとして採用されていたこともあり、明確な判断は示されず 継続開発となりましたが、ものにならない可能性の強いプロジェクトからウインチェスターは降板し 開発中止の代わりにM-14 ライフルの製造を勝ち取ります。この判断には、銃的には優位だったようですが 担当管たちがアーマライトに惚れていたことが、将来を危惧する材料となったようです。また、弾薬もウインチェスターの224よりも223レミントンの方が性能が良かったようです。


↓こちらのフォーラムの下の方に1958年のテスト結果のPDF へのリンクなどあります。
https://www.ar15.com/forums/ar-15/The-Complete-ArmaLite-AR-15-Prototype-Guide/123-743191/

コルト登場

AR-10 で次期小銃トライアルに敗れ、この度またしてもAR-15 で小口径銃の正式採用に至らなかったアーマライト社でした。 しかも軍からは改良点として何十にもわたる指摘を受けて、採用に至るには継続開発の必要がありました。

1959年親会社のフェアチャイルド社は、景気が悪くなり、この先ものになるのかわからないプロジェクトに大金をかけられなくなってきました。 そこでアーマライトから手を引くことを決定します。そのさいAR-10 とAR-15 については権利をコルトに売却しています。

ここは、おそらく軍による紹介があったのではないかと思います。潰すには惜しいプロジェクトだから、コルトさん 何とかしてくださいな、となったのか、はたまたコルトの営業マンがAR-10、AR-15 の将来性を見抜き強引に取ったのか・・ よく分かりませんが、私は前者のような気がします。


ルメイ将軍

1959年に権利を取得したコルトは、翌年の1960年7月4日のアメリカ独立記念日に開催された射撃パーティにて ルメイ将軍にAR-15 を撃ってもらいます。50、75、100ヤードの3ヶ所に設置されたスイカに対して射撃したルメイ将軍は、 すごく気に入りその場で空軍の飛行場警備用に8500丁を注文したと言われます。

写真は、その時の伝説的ライフルでシリアル106番です。約1000万円で 競り落とされたようです。


なかなかに劇的なシーンですが、実際はどうなのでしょう?コルトのセールスマンによる周到な根回しがあったのかもしれません。

とにかく売りたいコルトは、空港警備でも何でもいいからきっかけが欲しかったと思われます。


参考ページ
https://www.nrablog.com/articles/2017/9/remembering-the-air-force-general-who-helped-usher-in-the-m16-rifle

https://www.morphyauctions.com/jamesdjulia/item/lot-1009-near-mythical-extraordinarily-rare-colt-ar-15-model-1-original-select-fire-test-rifle-known-as-the-coconut-rifle-42475/

マクナマラ国防長官

ルメイ将軍による独断の追加発注は、統合参謀長に拒否され、ケネディ大統領からも叱られます。 その後、AR-15 は南ベトナムへ供給されたり、陸軍の性能試験を受けたりしますが、不当な環境に置かれたAR-15 には 厳しい結果しか残せませんでした。陸軍内部には、空軍に対する反感とともに鉄と木材によるライフルへのノスタルジーや 30口径が絶対だという根拠もないイデオロギーが満ちていたのでしょう。

空軍からの絶賛と陸軍からの否定意見が両立する中、M-14 の生産も停滞し、ベトナム戦線は拡張していきます。 効率化、予算削減を目指すマクナマラは、AR-15 の採用とM-14 の生産停止を決断します。 空軍出身の彼には、陸軍の意見よりもかつての上司であるルメイ将軍の意見の方が通りやすかったのは想像に難くありませんが、 物事を効率的に整理しようとする彼の方針には、小口径高速弾を大量に持ち運び、フルオート射撃できるAR-15 は、 正当な評価としてM-14 よりも優れていると判断したのでしょう。

その後、マクナマラは、長年にわたってアメリカの銃器を開発してきたスプリングフィールド・アーモリーを閉鎖します。 M-1 ガランドからM-14 へほとんど進化しなかったのも原因の一つと言われています。 スプリングフィールドの名前は、現在は民間銃器会社のレーベルとして使用されています。


M-16 は、採用決定されたものの、ボルトフォワード・アシストをつけろという陸軍の要望やそれを拒否する空軍のモデルなど、 空軍主導で導入されたものに対する陸軍の嫌がらせのような反発は、その後も続きます。 223レミントン弾の使用パウダーの変更に伴う汚れからくるボルト閉鎖不良による故障問題は、大きく議会で取りざたされました。その解消にM-16 のストック内にクリーニングロッドが格納されるようになります。

いろいろありましたが、223レミントンは、結局アメリカのごり押しでNATO 正式弾となり、世界各国で使用されることになりました。そのため223口径のアサルトライフルが各社から登場してきました。日本も89式小銃を開発しました。


おわりに

M-16 の物語を読んでいくと、何度も負けながら不思議と蘇ってきて、文句ばかり言われながらアメリカ最長の 正式小銃として今でもたくさんのバージョンが存在して使用され続けていることに驚きます。この銃の持つ強烈な特徴と それを生かそうとするチャレンジ精神に満ちたアメリカン・スピリッツを強く感じます。

最も良い物のみが生き残る、とは言えない現実社会ですが、間違いなく言えることは、生き残った者が最高なものである、とは 言えるのではないでしょうか?