名 称 | Hino-Komuro |
所 属 | 日本 |
口 径 | .32 ACP (8mm南部用もあった) |
記 事 |
1903年(明治36年)特許が出された日野熊蔵陸軍中尉設計の拳銃。 世界でも珍しいブローフォワード機構を持つ。 投資家の小室氏と組み、販売は小室銃器で行われたため小室式拳銃、日野−小室式拳銃とも呼ばれる。 500丁ほどの生産数のため幻の拳銃となっている。 アメリカ、イギリスでも特許を取得している。 表題に「恐怖の」と書いたのは、オープンボルト式で一度銃身をコックしたら弾丸発射しか あとに道はないためである。ブローフォワード式は、ブローバックと似たような物で 銃身が固定されていてフレーム全体がブローバックすると考えるとわかりやすい。 問題は、撃針が固定式なことである。
この銃の発射までの全体の流れをいうと
すなわち、銃身をコックしたらもう安全に弾を取り出す方法はないのである。また、トリガーの
爪に銃身がひっかかるまで引けなかったとしても、すでにフィーダーにより弾丸が薬室に入ろうとしており、
リコイルスプリングの力で銃身が後退して弾丸は発射される恐れが強い。
じっさいに日野は自分の左親指を打ち抜いている。またその後、他の者の操作中に背後から撃たれ
腹部貫通している。設計者自ら二度もこの銃に撃たれている。おそらくこの銃が人を撃ったのは
この二度だけであろう。 |
Google Patent Searchで検索 886211 KOMORO
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シンプルな構造。それもそのはず、動くところは銃身だけである。
サブマシンガンのオープンボルト式のようにフレームには撃針が固定されている。 赤色で枠のみ描いているのがフィーダーである。
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ばらしても部品はこれだけ。エキストラクターはもう少しバラせるが描いていない。 シリアルナンバー156の写真を写した。 日野式は完全手作りなので少しずつ違っているところが多い。 ちなみにとびら絵はシリアル184の8mm南部口径で本当はグリップ後方に何かあるようだが写真が不鮮明なので描かなかった。 と、思っていたらGun 誌1981年3月号にシリアル184 の銃がくっきりと写っている。 グリップ後方には、何もなかった。刻印が光っているだけであった。
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せめて撃針が動くようになっていれば、あやまって発射される事もないであろうに。
ということでクローズドボルト式、外部ハンマー装備の改造型をあそびで描いてみた。 ついでに銃身引っ張りそこねを防ぐためにコッキングピースをつけセレーションを彫り 下部には銃口に指がかからないように突起をつけてみた。この絵はmaimaiのおあそびです。
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![]() ↑日野が飛ばしたグラーデ機、胴体は竹
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日野熊蔵はその後航空機開発に血眼になる。 1910年徳川大尉がフランスから、日野大尉がドイツより持ち帰った飛行機で日本初の飛行を成し遂げた。 この件では徳川大尉の飛行が日本初と公式には記録されているが実は数日前に練習時に 日野は初飛行している。あわてて陸軍は滑走中にジャンプしただけだと発表したが 私の思うところ日野は確信犯だ。御三家出身の超エリート徳川大尉に花を持たせることは、 周知のはずだったのであろうが、名誉と富を得たい日野はルール違反をして飛び上がったのだと思う。 グラーデ機はエルロンはなく紐を引きツバサを変形させて飛ぶ。誤った操作で思わず飛んじゃった なんてことはありえない。 その後、国産開発の飛行機の初飛行一番乗りを目指した日野は、皇族の参列した中、エンジン故障で 目的を達せられず、またもや徳川氏に国産機初飛行を奪われた。このことも少し気になる。 偉い人が見に来るということは「準備万端」状態だと思うが日野は挨拶もせずに自ら設計した エンジン修理に明け暮れた。私は陸軍の破壊工作があったとしてもおかしくはないのではないかと 思ってしまった。 その後、日野は飛行機開発の借金で訴えられ福岡に左遷される。徳川氏はのちに男爵となる。 日野は終戦直後の1946年貧困と栄養失調のため世を去る。 徳川氏は戦後も日本操縦士協会会長として活躍し1963年高度経済成長期に亡くなった。 富と名誉に執着し、未来を見すぎた無礼な物言いの田舎者はエリートとの出会いで、いろいろ周囲からの障害・妨害もあったであろう。小説にもなるのではと思う。失意のなか執念を燃やしたであろう日野も男爵徳川氏も今では仲良く代々木公園に銅像として並んでいる。
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以下のページと書籍を参考にしました。
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