(1) 中田忠夫・中田商店創業者
漫画、アニメの世界の歴史を語るときに手塚治虫先生の名は、良かれ悪しかれけっして外すことは出来ません。 同じようにモデルガンの世界の歴史を紐解くときに絶対に欠かせない人の名前、それが中田 忠夫 氏です。昭和 2年生まれの中田氏は、終戦時18歳です。大陸から帰国し故郷の広島で闇市の商いを始めました。 何もかも焼き尽くされた日本でしたが、昭和 25年に勃発した朝鮮戦争の物資調達景気に乗り、日本経済は上昇へと転じます。 そのさなか東京へと中田氏は昭和 27年に拠点を移し、銀座にて露天商を始め、 内需拡大の波に商才を発揮します。 やがてアメ横に中田商店として店舗を構える事になります。それがやがてモデルガンの聖地がアメ横になる元となりました。
中田商店は主に米軍関係の服飾品を仕入れ販売していました。その仕入先である米軍人の子供へのお土産用に アメリカ製のキャップガンも仕入れていました。まだ日本が貿易自由化されていないころでしたので独自のルートを通じて 輸入していたのでしょう。米国軍人から購入していたのかもしれません。
その当時国内には、トイガンと呼べる物は存在しておらず、アメリカの子供向けのキャップガンは、当時の大人達にとって 希少高級なトイガンとして迎えられました。宣伝もすることなく少数が中田商店にて販売されていたようです。 今から見れば、鼻で笑われそうなキャップガンたちでしたが、なにしろ銃の形をした物がまったく日本に存在しない時代 ですから当時の男性にとって「夢のトイガン」として受け入れられたようです。 それらは、希少な外国製でもありたいへん高価な物として、もっぱら大人が購入していました。 世は経済成長が実感されだしたころで、流した汗が必ず明日の豊かな生活として約束されていた昭和 35年・1960年ごろのお話でした。中田氏33歳。
右写真は参考書籍です。中田〜MGCについて詳しく書かれています。
(モデルガンの説明は間違いがけっこうあります)
(2) 洋酒天国・昭和35年2月号
これは1956年から発行されていたサントリーの販売促進用の広告冊子です。その第43号、昭和35年2月号に全編トイガンで埋め尽くされた 号が発刊されました。こういう雑誌が出現するということは、それまでにかなりの数のキャップガンが中田商店から販売されていたのだと 思います。内容のコレクション紹介のところに中田商店の名前が出てきます。
貿易自由化されていない日本で、たいへん珍しい米国製のキャップガンは 高級なお宝として記載されています。
当時の日本では、米国製のウエスタン・ドラマがテレビで放映され、日本にウエスタンブームが到来していたことも背景にあります。
ウエスタンブーム
当時は高級家電だったモノクロのテレビは、経済成長とともに急速に普及しているころでした。
テレビ番組製作側も急激な膨張に番組制作が追いつけずに、米国製のドラマを日本語に吹き変えて数多く放映していました。
そのなかの西部劇がブームになっていました。以下は Wikipedia からの引用です。1960年ごろに如何に多くの作品が放映されていたか判ります。
ローン・レンジャー | 1958年8月〜1962年1月 |
ボナンザ | 1960年7月〜1962年4月 |
ローハイド | 1959年11月〜1965年3月 |
アニーよ銃をとれ | 1957年3月〜9月;1958年3月〜9月 |
バット・マスターソン | 1959年2月〜1961年3月 |
ライフルマン | 1960年11月〜1964年2月 |
ララミー牧場 | 1960年6月〜1963年7月 |
ガンスモーク | 1959年3月〜1969年5月 |
拳銃無宿 | 1959年12月〜1961年12月 |
シャイアン | 1960年5月〜1961年5月 |
ブロンコ | 1961年5月〜1962年8月 |
西部の男パラディン | 1960年、1961年〜 |
マーベリック | 1961年5月〜1963年12月 |
当時は、各家庭にテレビは無くテレビを持っている家庭に、お邪魔させてもらい一緒に見ている時代でした。 情報の量も少ないことから価値観も世間一様で、ブームといえば猫も杓子もそれに染まるという、現在では考えられない状勢でした。 なのでウエスタンブームも巨大な物で、Gun といえば西部劇という図式が成り立っていました。 そのブームに染まった団塊の世代の青年・少年たちの中から根元 忠氏や国本 圭一氏、コネティ加藤氏などが、やがて出現してきます。 根元さんは国際出版 Gun 誌ではジャック天野で執筆しています。国本氏はウエスタンアームズ、加藤氏はハートフォードの 社長です。
(3) 神保 勉・MGC 創業者
1960年にGun に目覚めた神保氏は中田商店の仕入れた米国製キャップガンを黒く仕上げ直し販売するようになります。 当時実銃がすべて黒色だったために米国のキャップガンは、おもちゃとしてすぐに判るようにメッキが施されていました。 神保氏は、それを剥がしてブルーに染め直して販売していたようです。また、良いトイガンを限られた会員に販売する構想を練り、雑誌などで会員募集を始めます。
日本MGC 協会のスタートです。 おもちゃと実銃は完全に区別された別の物であるべきだという姿勢は、初期のころからの神保氏の一貫した主張でした。 氏の自伝「MGC をつくった男」を読むとGun 趣味のスタートが米国人のコレクションからのようなので、そのへんから実銃とトイガンは 完全に別物であるべきだとの感覚を得たのではないでしょうか?
昭和36年に政府の、貿易為替自由化促進計画の繰り上げ決定により海外貿易が出来るようになり、中田氏は海外からトイガンを 大量に輸入し販売をはじめます。
それを神保氏は大量に仕入れて黒く染め直して販売します(小売店へ)。 その年1961年に、銃器知識もあやふやなままの神保氏のもとへ小林 太三(タニオコバ)氏からの強烈なカタログ間違いを指摘する手紙が届き、ただ者ではないと感じた神保氏は会うことを決め、結局雇い入れることになり、ここに歴史的なコンビが結成されることになります。
神保氏 29歳、小林氏 25歳でした。
以後1991年に離れるまで小林氏は一貫してMGCの製品の開発責任者として屋台骨を支えていきます。 神保氏はプロデュースに徹し、製品開発は小林氏が受け持ち、このレールの上をMGC は突き進んでいきます。 強烈な個性の二人が長い間共存できたのは、互いの分野を犯さなかったためだと思います。
(4) 日本モデルガン・コレクション協会=MGC
1961年にMGCカタログ No.1 が登場します。2010年に50周年記念モデルを販売しているMGC なので1960年に発足しているのでしょうが カタログとして出現したのは、この年のようです。 キャップガンを黒くした物 やダブルアクションをシングルに変えたものに混じって キャップガンを改造したMGC オリジナルモデルが登場しています。小林氏の初作品です。キャップガンのおもちゃ的構造に満足できない小林氏は、もっと高いクウォリティを求め 改造を始めます。
洋画が大好きだった彼は、フランス映画の薬莢の飛ぶシーンにあこがれて、どうにかして再現しようと 取り組んだのでした。
それは、コルト・スペシャルと呼ばれヒューブレー(HUBLEY)のキャップガンの中身をすべて作り直した物で、バレルを付けマガジンを製作し カートの排莢まで出来るようになっています。発火できないものの、すでにモデルガンの要素がすべて備えられていました。 これらカタログに掲載された「キャップガンよりも実銃に似た本格的なトイガン」の総称としてモデルガンという造語を MGC は社名に使用しています。したがって1960年からのこれらのキャップガン改造品が日本初のモデルガンの誕生 と言えます。
MGC の付けたこの「モデルガン」という呼び名は、やがて実銃に似たトイガンの総称として取り扱われるようになり、 現在でも一般に理解されずにエアガンを含めたトイガンの総称として使用されることがあります。
(5) オリジナル・モデルガンの登場
1961年に創刊された拳銃ファンはやがてガンファンと名前を変えますが、あえなく1962年10月号をもって廃刊となってしまします。 読者層を子供としたことが災いしたのではないかと思います。180円という値段は子供には厳しい物があったのではないでしょうか?当時は、100円札があった時代ですから。ガキだった私は10円握りしめてチロルチョコを買いに行ってました。右写真は創刊号の国際ガンクラブの広告ですが、ヒューブレーの黒いものが売られています。メッキを落としてブルー処理した ものだと思います。MGCが作っていたのかもしれません。広告の表題にすでに「モデルガン」の言葉がみられます。MGCが言い出した言葉が広まりつつあります。
1962年9月号ガンファンに、のちのコクサイとなる 国際ガンクラブの広告 にホンリュー・モーゼルと思われる写真を見ることが出来ます。 1962年に本格的発火式ヒューブレー改造モデルガン 「コマンダー」を発売したMGC は、続いて ベレッタ、P-38 など全部ヒューブレー改造品を販売しますが、この年ついに初の自己開発製品 ワルサーVP-2 を発売します。
これが通常、日本初のモデルガンと呼ばれています。 マニアには、その一月前くらいに販売されたホンリューモーゼルが日本初だとも言われます。
いずれにしろキャップガンの改造ではなくオリジナルの亜鉛合金製のモデルガンがこの年に巣立ちました。
Gun発刊
1962年12月に国際ガンクラブは、それまで隔月で発行していた機関誌をやめ、月刊誌Gunとして発刊しました。
以前拳銃ファンの編集をしていた南 氏を編集長としてスタートしました。内容は拳銃ファンが子供向けだったのと
対照的で完全に大人向け、実銃、狩猟の記事ばかり載っています。
Gun 誌がトイガンに方向を切るのは、15年ほどたった後、根本 忠 氏の助言によります。
それまでは戦記、狩猟などを主に取り上げていました。
Gun 誌は 2011年10月に廃刊するまで50年にわたり銃趣味の情報を発信し続けることになります。
(6) MGC のヨーロッパ視察
1963年に借金の上ヨーロッパのワルサー社を視察した神保氏、小林氏は、大きな収穫をもたらします。 英国で見た映画「007 危機一発」に感動し、やがて日本でも訪れるであろう007 ブームを読み切ったのです。 帰国後そうそうにPPK を商品化し、翌年の日本での映画公開の時にはすでにPPK を販売していたのです。 この辺の先読みは素晴らしい才能です。しかしあまりに先が読める事は、のちにブローニングの乱へと繋がっていきます。このころは、日本経済もどんどん拡大して行き、1950年代に言われていた三種の神器「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」は1960年代に入ると 「カラーテレビ・クーラー・自動車」と呼び直され、人々はひたすら豊かさに向かって働きました。所得も増え、趣味にも お金が回せるようになり、モデルガンも作れば売れるという時代を向かえ、MGC 小林氏の大活躍が始まります。
- 1962年 ワルサーVP-2
- 1963年 チーフ、ハンドエジェクター、ワルサー・ターゲット
- 1964年 PPK-1型
いっぽう他社も独自に製品を製作して行きました。
- 1962年 ホンリューモーゼル(ハドソン)
- 1963年 ハドソン・ウッズマン(コルク式)
- 1963年 江原商店(CMC)・SAA(マテルコピー)
(7) 当時の警察指導
1961年からの貿易自由化により街にキャップガンがあふれ出した頃、警察の指導により発売禁止になった物もありました。 1960年代は、経済発展とは裏腹に社会情勢は大変不安定なものでした。 アメリカでは- 1960年 ベトナム戦争開始
- 1962年 キューバ危機
- 1963年 ケネディ大統領暗殺
- 1965年 マルコムX暗殺
- 1968年 キング牧師暗殺
このような時代でしたので警察によるトイガン取締りは厳しく、弾が発射される物はすべて発禁となったようです。 また、MGC がコルトスペシャルのあとに発売したヒューブレーを改造したコマンダーは、弾を発射しないモデルでしたが センターファイアに鉄バレルだったためか、発禁となりました。 当局の判断しだいでどうにでもされることを経験したMGC は、以後製品の安全対策に、たいへん厳しくなります。
(8) 猟銃乱射事件
1965年(昭和40年)2月に、この年の7月の突然の銃刀法改正に繋がる悲惨な事件が起こりました。 名古屋でライフルと散弾銃を持った男がお好み焼き屋に入って3発発砲したのです。理由は定かでなく、のちに精神に障害を負っていたことが判明します。 この事件で20歳の女性が亡くなり2名が重軽傷を負います。 犯人は、その後喫茶店と食堂にも銃弾を撃ち込み、バイクで逃走しましたが通報で捕まっています。 問題とされたのは、犯人が前年に精神神経科にかかり分裂症状が見られると診断されていたにも関わらず、住所変更をしたために 新たな住所で正規に銃砲所持免許を取得したことがあげられました。 これにより同年7月15日に銃刀法が改正され、銃砲所持には精神障害の有無の診断書と住民票の抄本が必要とされることになりました。
ひとつの若い命が失われて発行された法律には重い意味が込められています。しかし市民の血が流れないと何も変わらないことは 最近の飲酒運転の罰則が子供の命と引き換えに重くなった事をみても、2012年の今でも変わっていません。 法律の条文は多くの人々の血と涙が生贄にされて文章となっているようです。
本年は、銃刀法改正のすぐ後に少年ライフル魔事件という恐ろしい事件も起きました。
この、突然の銃刀法改正は名作ブローニング380を完成させ生産にかかろうとしていたMGC にも大きな影響を及ぼし ひいてはモデルガン業界、ユーザーにも損失を与えることになって行きます。
(9) ブローニングの乱
1964年2月号のGun 誌にブローニング380の予告が載っています。まだ、実物とまったく同じ構造です。 実物よりすこし小さく作るという神保氏の方針に小林氏が願いでて実物大で作られています。 そのかわり絶対に改造できない安全構造にするために発売まで1年以上かかりました。 丸郷商店(マルゴー)やマルホコルト(堀内商店)の広告にも次期製品としてブローニングが登場していました。その発売が待たれるなか、とんでもない広告が載ります。 1965年7月号のGun 誌にカラーで直営店ボンドショップ開設と住民票提出でなければ販売しないという方針の広告です。
それまでのMGC は、製造のみで販売は行っておらず
江原商店(CMC)、マルホコルト、丸郷商店、コクサイなどがもっぱら販売を受け持っていました。 そのMGCが、あろうことか販売店の集まっているアメ横に直営店を出すと言うじゃありませんか、しかも住民票提出に同意しない小売店へは 出荷しないという方針も伝わりました。
通常、商売というものは、作る側よりも売る側のほうが難しく、身分?も上位に存在します。 販売店から見るとこれは、あきらかに反乱です。 当時日本で販売されているモデルガンのほとんどを製造していたMGC は強気でした。 すでに8月にはボンドショップをオープンさせ、行動を開始しました。 住民票提出というのは、危なくないオモチャを危ないと認定するようなもので、販売店には当然受け入れられない事でしょう。 また、今とは違って住民票そのものを取ることも大仕事な時代でした。 おそらく話し合いが持たれた事だと思いますが神保氏は主張を譲らず、ここにモデルガン業界はMGC とその他の会社連合という図式で 完全に分裂してしまいました。
コマンダーで発禁を食らった経験を持つ神保氏の眼には、このまま世間にモデルガンが広がれば、やがて当局の自在な意思により 全面販売禁止という、考えられる最悪の将来が見えていたのかもしれません。
結局、この方針は黄色46年規制のなかで埋没してしまい、競争相手も増え、MGC に利益をもたらしたとはいえないでしょう。 失策の真実は語られないことが普通ですので真相はナゾのままになると思います。
この業界分裂は、やがてユーザーにとっても相次ぐ規制への抵抗手段が一本化されていないため、52年規制というたいへんな不利益をもたらすことになります。
(10) 中田モデル登場
アメ横で中田商店として順調な発展を遂げていた中田氏には目標がありました。日々戦争の記憶が社会から無くなるのを危惧して、いつの日か戦争博物館を建てたいと思い描いていました。 終戦時中国大陸にいた中田氏は、悲惨な戦争の記憶を残そうとしていたのでした。
1963年ごろミュージシャンであり木工職人である六人部 登氏を雇い入れ、その卓越した工作技術でプラスチック製無可動の拳銃や スチール製無可動の機関銃を一品製作させていました。それらは、やがて夢がかなったときの戦争博物館の展示品となるべき物でした。
MGCブローニングが発売間近な頃 1965年 3月号 Gun 誌に中田初のモデルガン発売予定の広告が載ります。
ワルサーP-38 製作開始。博物館はままなりませんが、手近に戦争の記録を留められる軍用銃のモデルガン製造へ乗り出します。 ところが翌月号にお詫びとしてP-38 はMGC が開発中なので当店は急遽ルガーP-08 に変更しますと掲載されました。 まだ、MGC ブローニングの乱の前でしたので、他店と競合せずに仲良くやって行こうとの中田氏の配慮が見て取れます。 中田氏は人望の厚い方のようで中田商店に集う若者たちの中から、のちの業界関係者がたくさん出ました。
このルガーP-08 は、六人部氏の初の量産作品となり1966年に発売されます。朝早くから行列が出来るほど売れたそうです。 中田商店は、こののちミリタリーシリーズとして軍用拳銃や日本軍の小銃を製造販売していきます。