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(11)業界決裂、CMC誕生

住民票提出を義務化とするMGC の主張は、他の会社には受け入れられず完全に業界は分裂しました。 当時はMGC 製品がほとんどだったモデルガン界なので、売る物がなくなってしまう各社は、中田社長の呼びかけにより 組合を作って会員同士は商品を共有しようということになりました。ここに日本高級玩具小売商組合(NKG)が結成されました。 その後15年にわたるMGC 対 その他連合の図式が出来上がりました。
 
MGCセンチニアル 1965年11月号の広告を以ってMGC はGun 誌広告をやめます。
したがってブローニングの後のモデル、センチニアルの広告ははガンマガジン(ベースボールマガジン社)に掲載されました。007の原作に出てくる銃ということで選ばれたようです。
Gun 誌1965年12月号にはNGK からの 絶縁状とも取れる挨拶広告 が掲載されます。 MGC がGun誌へ再び広告を掲載するのは、MGC 20周年記念としての1979年5月号でした。
 
売るべき商品がなくなった中田商店は、早急にトイガンを作らなければなりませんでした。 そこで六人部氏が戦争博物館用に製作していたプラ製の拳銃を砂型に入れ アルミダイキャストモデル を急遽販売しました(亜鉛製との情報もあります)。
 
CMCガバ1型写真 また、それまではマテルコピーのSAA を販売していた江原商店はこれを機に本格的モデルガンの製造を目指します。 社名もCMC と改め、春にはガバメントを発売すると発表しました。 すでにルガーP08 の発売を決めていた中田にCMC が加わってことで商品製造の心配はなくなりました。 MGC 独占だったモデルガン市場は決裂の翌年1966年から大きく変わり始めます。

(12)1966年コクサイ参入とMGC コピー品の氾濫

中田P38写真 1965年のブローニングの乱で袂を分かった組合側は、当面の商品を早急に作らなければなりませんでした。 中田からはルガーP08 に次いでワルサーP-38 が発売され、CMC からは大物のガバメントが発売されました。
 
国際ポケット それまでMGC 製品を販売していたコクサイもインターナショナル・ガンショップ(INT)の名前で製造に打って出ます。 小型拳銃のコルトポケットを発売しました。このモデルは、たいへんに凝ったつくりで力の入れようが判ります。 しかし、このモデルはとても採算性が悪かったと思われ、手っ取り早く稼げるコピー品へと移行するきっかけにもなったのではないでしょうか?
 

MGCコピー品の氾濫
INT(コクサイ)は、金型屋を抱きこんだのか、金型屋から持ちかけたのか判りませんが、MGC が下請けに出していた金型の設計図を そのまま使用して造った、すなわちMGC とまったく同じ製品であるコピー品を発売します。チーフとセンチニアルです。
 

コクサイチーフ1型 コクサイセンチニアル

また、ホンリュー(製造はハドソン)からはMGC のPPK を1cm伸ばして実物大としたコピー品 が発売されました。 マルゴーからは、MGC サイズのままのPPK 、とびら写真のブローニングの完全コピーも登場します。
 
組合側のMGC 潰しの攻勢はすごい勢いで、1965年までは数機種しかなかったモデルガン界も、1966年だけで MGC が新たに4機種、組合側が9機種発売しています。組合側のうち5機種はMGC コピー品でしたので MGC 側もかなりの痛手をこうむったのではないでしょうか? 組合側のオリジナル製品は中田とCMC のみのような状況でした。
MGC の機関紙ビジェールVol.3(1966年)でコクサイ社長 「荒井新一郎氏への公開状」と題して特集記事を組んで住所まで記して 名指しで反撃しています。
 
モデルガン業界は、けっこうモラルのない経営者ばかりだったようで、コピー品はこの後もMGC製品を対象にする ばかりでなく NKG 組合間でも製造販売され
「売れれば何だっていいんだ」状態で進んでいきます。 MGCはオリジナル路線を貫きます。
 

(13)MGCダイナミックシリーズ

1966年になるとMGCは、ガバメントとHScの予告を行いますが、HScの方は先送りにされ 新たにダイナミックシリーズと銘打ちガバメント、ルガー、P38を順次発表します。
 
特にP38は、当時人気のあったアメリカ製テレビドラマ「0011 ナポレオンソロ」に出てくるスパイ仕様で ストックなどの アタッチメント も発売されました。
ガバメントは当時先行発売されていたCMCが無発火タイプだったのに対して、MGCは発火モデルであり スライド右側にはファイアリングモデルと誇らしげに刻印がありました。 これに対しCMCは、MGCモデルを参考にし各部に改良を加え1967年にガバメント発火タイプを 発売します。
MGCガバメント MGCルガー MGC・P38 アンクル

 

(14)中田 WW II シリーズ

中田トカレフ 第2次大戦の軍用銃のモデルガン化を進めるナカタからは1967年にトカレフ、ハイパワーが発売され 組合員であるCMCからはベレッタ34、ホンリューから14年式が予告されます。 ホンリューは1967年に倒産したようでハドソンが販売を直接行うようになります。中田の趣旨に賛同した会社の製品も 含めてワールド・ウォー2シリーズは完成に近づきます。
 
中田ハイパワー CMCベレッタ34 ハドソン南部N1
 
また、この年にNKG組合員の製品ばかりを載せた カタログNo.1 が国際出版より発売されました。 NKG組合のカタログということで各製品には製造業者名が書いてありませんでした。
 
1969年にはコピー品ではなくマルゴーオリジナルの PP も販売され、これで以後数十年にわたりモデルガン界を 構成していくNKG組合の各社とMGCが揃いました。 1969年までにモデルガン機種は50種類を超え、企業間競争はユーザーへ良質な商品提供と価格の低下という 恩恵をもたらします。がしかし、一部のマニアのみの世界であったモデルガンが世の中に多く広がった おかげで、心無い者による犯罪行為へと悪用される懸念が生じてきました。
 

(15)SAA登場

1967年になって、やっと本格的SAAがMGCより登場します。
次いで翌年にCMCからも登場し、これでキャップガン時代からのウエスタンファンはようやく ガンプレーをすることができるようになりました。 MGCはメカ的にはアメリカ・スタームルガー社の機構を模していました。 そこでCMCも真似をして同じようなメカニズムでしたが、1970年からはコルトのオリジナルのような ボルトを持つ構造に変えられました。日本初の本格的SAAの登場でした。
MGC・SAA CMC・SAA

(16)長物スタート

1964年にMGCから出たゼンマイ式の グリースガン が長物の最初の製品ではないでしょうか? 中田商店も1965年に少数の38式歩兵銃を販売しました。 いずれも少数販売なので本格的な量産品の長物スタートは1968年の中田MP40とMGC・MP40 の対決からでした。
長物でもNKGによるMGC潰しは続いていて、ウインチェスター・レバーアクションやステン・サブマシンガンが 競作になりました。
 
中田の38式はミロク製ではないかと思います。

(17)王冠マーク自主規制(1969年)

アポロが月面着陸を果たした1969年(昭和44年)、警察の行政指導によりモデルガン業界は、王冠マークを 製品につけなければならなくなりました。
 
これは、自主規制という名ではありましたが、警察の行政指導であるので、各社従いました。
マニアにとってブースカの王冠のようなマークは、受け入れがたく趣味をやめた人もいたようです。
 
王冠マークは、本物の拳銃と見分けが付くように、目立つ位置にあり、白く塗られたりしていました。 新規の製品は、金型から王冠マーク付きで製作され、既製品にはスジ彫りされました。
 
ナカタフレンチ このころに新発売されたナカタのフレンチは、初めから金型に王冠マークが入っていたため フレンチには王冠無しのバージョンは存在しません。
 
モデルガンチャレンジャー誌1984年 3、4月号のHitoshi Mori さんの記事によりますと、1966年には14万丁の販売だったモデルガンも 1968年には32万丁と倍の伸びを示しています。MGC のブローニングの乱のおかげで、製品が増えたせいもあるでしょうが、 世の中の景気が良かったことに加え、団塊の世代が就職年代の20歳前後を迎え、お金を自分で自由に使えるという旺盛な購買層が 出現してきたことが大きな理由でしょう。
 
このころ日本の景気は上り詰めようとしていたころで、いざなぎ景気と呼ばれました。日本のGNP(国民総生産)が世界第2位となり、 翌年の大阪万博に向け国民は消費を謳歌していました。しかし、社会情勢は乱れ、学生運動がますます過激になり、東大安田講堂の攻防戦や 大菩薩峠事件をへて翌年には赤軍派がよど号のハイジャック事件を起こすことになります。
 
この年に初めて六研ファーストドロウ(SAA)が50丁限定で発売になりました。このころ、中田商店を離れた六人部氏は 各社のモデルガンの原型製作のほか、鉄製長物を少数販売していましたが、真鍮のSAA という高級ハンドガン路線に踏み込みます。 のちにマニア垂涎の伝説となる真鍮モデルガンですが、この鉄製長物と、真鍮ハンドガンという高級品の組み合わせは、 のちに1977年の52年規制に乗り出す警察に格好の口実を与えることになって行きます。
 

(18)「よど号」、「アカシア便」ハイジャック事件(1970年)

1960年代後半は、世界各地で大学生の反乱が起きます。
1966年 中国での文化大革命、1968年 フランスの5月革命、日本では 東大安田講堂占拠など世界各地で学生運動が起きていました。当時は学生のパワーで世界を変革できるんだという考えに染まっていました。
 
そのなかから過激な武装革命を唱える赤軍派が生まれ、1970年に海外拠点を求めて、よど号ハイジャック事件を起こします。 当時はまだ日本ではハイジャック事件が起こっておらず、法律も整備されていない状況でした。 犯人たちは簡単に機内に武器と思われる物を持ち込めたと思います。 そのなかにモデルガンも存在していました。
 
乗客を韓国で降ろし身代わり人を乗せてよど号は北朝鮮へ向かいました。 この事件の前年に起きた大韓航空機ハイジャック事件で乗客が北朝鮮に連れて行かれたままであった韓国政府の 対応のおかげもあり乗客解放が成功したのは幸いでした。2012年の現在でも当時の大韓航空機の乗客の一部は 韓国へ帰還できていません。
 
よど号事件は3月に起きたものでしたが、あわてて6月にハイジャック防止法が制定されました。 似たような事件が繰り返されるのは今も昔も変わりません。
 
8月になるとモデルガンを持った男が全日空アカシア便をハイジャックしました。 犯人は無事に逮捕で事件は終結しましたが、この犯行にはPPKのモデルガンが使用されていました。 あいつぐ凶悪犯罪に警察は、モデルガンの規制へ乗り出します。 また、この年はシージャック事件がおこり、実銃のライフルへの規制強化も実施されることになります。